LOGIN受話器のない公衆電話から響いた呼び出し音は、橋の下を流れる川音を押し退けるほど鮮明だった。
六人は電話ボックスの前で動きを止め、誰もガラス扉へ触れないまま音が止むのを待った。
黒い電話機には電源表示もなく、十三年前に受話器を失ったコードだけが垂れている。
それなのにベルは二度、三度と内部で鳴り、七回目で唐突に沈黙した。
蓮司はすぐに電話ボックスの周囲を封鎖するよう六人の立ち位置を決めた。
朔は内部へ入る前にガラス面、足元、屋根、支柱を撮影し、悠斗は古い設備台帳を開いたまま現在位置と撤去記録を照合する。
床には吹き込んだ落ち葉と黒い埃が積もり、長期間人が立ち入っていないように見えたが、電話機の表面だけは不自然なほどきれいだった。
番号盤の縁にも硬貨投入口にも厚い埃がなく、つい最近、濡れた布で拭いたような筋が残っている。
「誰かが手入れしてる」
奈々香がガラス越しに言った。
声には恐怖だけでなく、仕掛けの痕跡を見つけたことへのわずかな安堵が混じっていた。
七刻女学校でも常世荘でも、人間が触った痕跡を見つけられた瞬間だけは、怖さに輪郭が生まれたからだ。
朔は手袋をつけ、電話ボックスの扉をゆっくり開いた。
蝶番が錆びた音を立てたが、扉そのものには最近動かした跡があり、下部に積もった土が半円状に削れている。
電話機の背面を確認すると、本来あるはずの電源線も電話線も撤去済みで、地面から伸びる古い配管は途中で切られていた。
通常の設備だけなら、今のベルを鳴らすことはできない。
美月が床の埃を照らすと、古い靴跡の上へ一つだけ比較的新しい踏み跡が重なっていた。
踵とつま先の輪郭は崩れており靴種までは分からないが、電話機の正面へ立ち、少し右へ体重を寄せた位置に残っている。
誰かが最近このボックスへ入り、電話機へ直接触れたことだけは、磨かれた外装と合わせれば偶然では済ませにくかった。
「下を見る」
朔は電話ボックスの基礎へしゃがみ、懐中電灯を低く当てた。
コンクリートと雑草の境目に、黒い細線が一本だけ覗いている。
古い配管ではなく、被覆の新しいケーブルだった。
草の根を傷めないよう周囲を掻き分けると、それは電話ボックスの床下から橋の側面へ回り込み、ガードレールの外へ続いていた。
六人は橋上に二人を残し、蓮司と悠斗がケーブルを追った。
朔は二人の位置をカメラで確認しながら、澪、美月、奈々香と電話ボックス側に残る。
ケーブルは橋脚の陰を通り、川へ落ちないよう金具で固定されていたが、道路側からは草木に隠れてほとんど見えない。
施工は雑ではなく、夜間に一時的な設備を置いた程度ではなく、ある程度長く使うことを前提に敷設されたようだった。
数十メートル先の山林で、蓮司から無線が入った。
二人は倒木の裏へ防水ケースが固定されているのを見つけ、中に小型バッテリー、無線中継器、音声再生装置が収められていると報告した。
市販品を組み合わせた構成で、遠隔から信号を送り、公衆電話内部のベル機構へ疑似的な着信電流を流すことはできる。
さらに記録媒体と小型アンプもあり、受話器を接続すれば録音音声を流すことも可能だった。
ケースの内側には結露がほとんどなく、電池の端子にも新しい指紋防止用の手袋で扱ったような擦れだけが残っていた。
電源残量も十分で、何年も放置された設備ではない。
ケーブルを固定する結束具の製造時期まで見れば、少なくともここ数か月以内に誰かが橋へ入り、撤去済みの公衆電話をもう一度「鳴る電話」に作り替えた可能性が高かった。
しかも山林側から電話ボックスまでは道路から死角になっており、夜間なら作業する姿を通行車へ見られにくい。
「今回も仕掛けがある」
戻ってきた蓮司が言った。
美影橋そのものに電話回線が生きているわけではなく、誰かが撤去済み設備を見た目だけ復元し、遠隔操作できるよう加工している。
少なくとも先ほど公衆電話が鳴った現象だけなら、人間の手で説明できた。
奈々香は肩の力を落とし、常世荘で聞いた透の電話も同じだったのではないかと朔へ尋ねた。
透の声を録音または合成し、古い電話へ隠した装置から流したなら、死者からの着信を作ることはできる。
人形が消えたことや受話器が祭壇に現れたことは別としても、電話そのものだけなら同じ技術の延長に置けるはずだった。
「常世荘の電話機には、これとつながる設備がなかった」
朔は首を振った。
二〇三号室の固定電話は内部まで分解し、壁内配線も確認したが、無線受信機も音声再生装置も見つからなかった。
戻り橋の装置を作った人物と同じ人間なら、別の方法で同じ現象を再現した可能性はあるが、現時点で同一の仕掛けとは言えない。
「でも、作れる人間はいる」
美月が小さく言った。
完全に説明できないものへ怯えるより、まず人間の側から潰していく。
その姿勢は六人の間で共有され始めていたが、澪は山林に隠された無線機を見ても安心できなかった。
誰かは今夜、自分たちがここへ来ることを知り、午前零時までに電話が鳴る舞台を整えて待っていたことになる。
蓮司は装置へ触れる前に警察へ位置と構成を送り、撤去せず監視だけ続けると決めた。
犯人が遠隔接続するなら、その通信経路を追える可能性がある。
悠斗は無線中継器の識別情報を控え、朔は周囲に別のカメラや人感センサーがないか探した。
木の幹には不自然な穴も新しい金具もなく、少なくとも目に見える監視装置は見つからなかった。
午後十一時三十八分。
六人が橋のたもとへ戻った直後、公衆電話が再び鳴り始めた。
今度は全員が時刻を確認し、澪は反射的に鞄の中のスマートフォンへ手を伸ばした。
澄花の番号から届いた指示には、最初の三回は出ないこと、四回目だけ必ず出ることが書かれている。
先ほど到着時に鳴ったものを数えるべきか一瞬迷ったが、その呼び出しは受話器を持たない公衆電話だけで終わっており、午前零時へ向けた着信とは別の合図にも思えた。
ベルは七回鳴った。
誰も電話機へ触れない。
七回目の余韻が消えた瞬間、奈々香のスマートフォンが震えた。
「私?」
奈々香が画面を見て動きを止めた。
発信者表示には、相馬透と出ている。
彼女の端末に透の番号は登録されており、八年前から変わっていない連絡先がそのまま名前へ変換されていた。
「出ないで」
澪がすぐに言った。
奈々香は両手で端末を持ったまま、応答にも拒否にも触れない。
着信音は山の静けさの中で異様に明るく響き、画面に表示された透の名前だけが何度も明滅した。
一回、二回と数えるように誰も口を開かなかった。
七回目の着信音で電話は切れ、画面は待受へ戻る。
履歴には〈相馬透 不在着信〉と残り、番号を確認しても透本人のものだった。
「番号偽装はできる」
朔が言った。
発信者番号だけを透のものへ見せかける技術はあり、それ自体で本人からの電話とは証明できない。
ただし、誰かが奈々香の電話番号と連絡先登録の状況を知っていることは確かだった。
奈々香は端末を胸へ押し当て、透が自分の番号を知っているのは当然だと呟いた。
七刻女学校へ行った六人は互いの連絡先を持っている。
だから犯人が透の古い端末や連絡帳を手に入れていれば、順番に電話をかけることもできる。
そう言いながらも、彼女の指は震えていた。
午後十一時四十六分、美月のスマートフォンが鳴った。
発信者はまた相馬透だった。
美月は画面を確認してから端末を平らな掌へ置き、絶対に触れないよう自分から一歩離れた。
七回鳴って切れるまでの間、彼女は透の死亡確認をした夜を思い出しているのか、唇を強く結んでいた。
「二回目」
蓮司が時刻と着信履歴を記録した。
奈々香の端末も美月の端末も、発信元番号は一致している。
通信事業者側の記録を照会しなければ、本当にその番号から発信されたかまでは分からない。
「四回目まで順番が決まってるなら、次も来る」
悠斗は苛立った声で言い、橋の中央を見た。
誰かが遠くから六人の反応を見て楽しんでいると思うと、黙って命令へ従うこと自体が我慢ならないらしい。
蓮司は挑発に乗るなと釘を刺し、朔も無線中継器への接続が発生していないか確認し続けた。
午後十一時五十三分。
予想どおり、今度は悠斗のスマートフォンが鳴った。
画面には同じ名前が表示されている。
相馬透。
「三回目」
澪が言った。
悠斗は画面を睨んだまま動かなかった。
しかし三度目の着信音が鳴ったところで、親指が応答ボタンへ動いた。
「こんなことに付き合ってられるか」
「悠斗」
「電話の向こうに人間がいるなら、出て吐かせた方が早い」
「三回目までは出ちゃ駄目」
澪は咄嗟に悠斗の腕を掴んだ。
悠斗が振りほどこうとした拍子にスマートフォンが揺れ、応答ボタンの緑色が指先のすぐ下へ滑る。
澪は両手で彼の手首を押さえたまま離さなかった。
「死人に指図されるつもりか?」
「澄花が死んでるかも決まってない」
「同じことだろ。向こうの言う通りに動かされてる」
「だからって、今わざと破る必要はない!」
悠斗の腕に力が入り、澪の掌が痛んだ。
朔が一歩近づいたが、その前に着信が切れた。
七回目だった。
悠斗は舌打ちし、澪の手を振りほどいた。
すぐに謝ることも責めることもせず、全員が彼の画面を見た。
着信履歴が追加され、その直後、留守番電話の通知が表示された。
「メッセージ?」
美月の声に、悠斗は顔をしかめた。
通常なら呼び出し中に留守番電話へ転送される設定ではないという。
それでも一件の新着音声が残っている。
「再生する」
蓮司が周囲を確認し、朔が録音を開始した。
悠斗はスピーカーへ切り替え、再生ボタンへ触れる。
最初の数秒は雨のような雑音だった。
『出なくてよかった』
透の声だった。
奈々香が息を呑む。
低く、少し眠そうな話し方も、語尾の息の抜け方も澪の知る透に近い。
合成音声で再現できると分かっていても、名前を呼ばれる前の沈黙まで本人らしく聞こえた。
悠斗はさっきまで応答しようとしていた自分の指を見つめ、何も言わず拳を握った。
『次は澪にかかる』
そこで音声は切れた。
六人の視線が澪へ集まった。
澪は自分のスマートフォンを握り、透の番号が登録された連絡先画面を開いた。
最後に透本人から受けた通常の着信は、七刻女学校へ向かうより前の日付のまま残っている。
「出なくてよかったって、こっちの行動を知ってる」
奈々香が言った。
「リアルタイムで見てるなら言える」
朔は橋周辺を見回した。
カメラが見つからなくても、車内に発信機や盗聴器を仕込まれている可能性はある。
あるいは着信が切れたか応答されたかという通信状態だけを遠隔で確認し、それに合わせた音声を自動送信することもできる。
「透の声である必要があるのも、こっちを揺さぶるためかもしれない」
美月は静かに言った。
死んだと確認した仲間の声なら、それだけで判断を鈍らせられる。
三度の着信を我慢させたあと、四回目だけ取らせる規則にも、相手の言葉へ従わせるための意味があるのかもしれなかった。
澪もそう思いたかった。
それでも透の声が「次は澪にかかる」と言った瞬間、放送室で冷えた彼の手を思い出してしまう。
あの遺体を自分たちの目の前から消した誰かが、今も透の声を好きなように使っているのだとすれば、それだけで十分に悪意がある。
午後十一時五十九分になった。
六人は橋のたもとへ半円状に立ち、澪を中央へ置いた。
朔は澪の端末と公衆電話の双方が映る位置へカメラを向け、美月は隣へ立つ。
蓮司と悠斗は山林側、奈々香は車道側を警戒し、誰かが遠くから近づいてもすぐ分かるようライトを消して耳を澄ませた。
あと一分で午前零時になる。
澪はスマートフォンを握ったまま、親指を応答ボタンが現れる位置から離していた。
最初の三回とは違い、次は出なければならない。
その指示を信じたからではなく、電話の向こうにいる者が何を知っているのか確かめなければ、透の遺体が消えた理由にも澄花の足取りにも近づけないと思ったからだった。
そのとき、橋のたもとの公衆電話が鳴り始めた。
受話器のない黒い本体の中で、金属ベルが一度強く鳴り、透明な電話ボックス全体へ震えが伝わる。
ほぼ同時に澪の手の中でスマートフォンが震え、暗い画面へ発信者名が浮かんだ。
相馬透。
澪は息を止めた。
奈々香、美月、悠斗へ順番にかかってきたのと同じ番号で、今度は間違いなく自分の端末が鳴っている。
時刻表示は午後十一時五十九分のまま、秒だけが午前零時へ向かって進んでいた。
四回目だった。
午前二時五十分。 美月が自分へ告げられた死亡予定時刻を生きて越えてから二十分余り、六人は旧道脇の開けた場所で次の動きを決めかねていた。 奈々香の午前三時十三分まではまだ時間があるが、園村香苗を模した人形、偽造された薬剤、切断寸前のブレーキ配管と、罠は一つずつ見つけても終わる気配がない。 さらに美月へかかってきた声は、高校時代の澄花しか使わなかった言葉まで知っていた。 犯人が現在の行動だけではなく、八年前の七人の私的な記憶にまで入り込んでいるという感覚が、眠気より重く全員の身体へまとわりついていた。 悠斗は橋の欄干近くで煙草へ火をつけ、苛立ったように一度深く吸い込んだ。 警察への連絡は妨害されたままで、車を動かすことにも警戒しなければならず、何かを触れば罠かもしれない一方で、何もしなければ別の仕掛けを見落とす。 その窮屈さに耐えかねたように煙を吐いた瞬間、彼のスマートフォンが上着のポケットで鳴った。 画面へ表示された名前を確認した悠斗は、露骨に顔をしかめた。「今度は俺かよ」 発信者は〈黒瀬悠斗〉。 自分自身からの着信だった。 誰も応答しないうちに端末は勝手にスピーカーへ切り替わり、悠斗本人の声で〈黒瀬悠斗。死亡予定時刻、午前三時〇二分〉と読み上げた。 悠斗の表情は一瞬だけ固まったものの、奈々香のように怯える代わりに、すぐ怒りが恐怖を押し潰したように腕へ力を込めた。「ふざけんな」 時刻は午前二時五十分を少し過ぎたところで、残り十二分しかない。 悠斗はスマートフォンの電源を切ろうとしたが、朔が記録を残すため止めると、端末を握ったまま橋の中央まで歩いていった。 そこで胡坐をかくように路面へ座り、両手を膝の上へ置く。 顔には、犯人の思いどおりには一歩も動かないという意地が浮かんでいた。「だったら俺は何もしない! 車にも乗らない。倉庫にも入らない。電話も取らない。何も食わないし飲まない。ここから一歩も動かなきゃ、罠に誘導しようがないだろ」 理屈だけなら間違っていなかった。 奈々香は恐怖から車で逃げようとし、美月は仲間を助けるため医療バッグを開くことを読まれていた。 本人が自然に取る行動の先へ殺害手段を置くのなら、その行動自体を止めればいい。 澪も一瞬は悠斗の考えがもっとも安全に思えたが、朔だけは時計から目を離さなかった。「座っ
午前一時五十二分。 蓮司の車内で奈々香の手のひらに残った赤い文字を撮影していたとき、美月のスマートフォンが短く震えた。 通信妨害が続く山中では、通常の回線を通した着信など成立しないはずだった。 それでも画面は着信表示へ切り替わり、発信者欄へ〈早乙女美月〉という名前が浮かんだ。 美月は端末を持ち上げたまま、すぐには応答しなかった。 奈々香のときと同じなら、触れなくても勝手に通話状態へ切り替わる。 朔がカメラを向け、蓮司が時刻を記録し、澪は眠気の消えた奈々香の肩へ手を添えた。 三度目の振動が終わったところで、予想どおり画面が自動的に切り替わった。『早乙女美月』 スピーカーから流れたのは、美月自身の声だった。 救急現場で必要事項を確認するときの、無駄な抑揚を削った落ち着いた声。 それが本人の名を読み上げ、数秒の間を置いて続ける。『死亡予定時刻、午前二時二十七分』 車内の時計は一時五十二分を示していた。 残り三十五分。 奈々香が息を呑み、美月の横顔を見た。 美月はすぐ端末を伏せたが、声も呼吸もほとんど乱れていなかった。「美月……」「大丈夫」 奈々香の死亡予告を二度経験したあとだから、仕組みそのものに慣れたわけではない。 それでも自分へ向けられた数字を聞いた瞬間、美月が恐怖より先に何を狙われているのか考え始めたことが、澪には表情から分かった。 奈々香が「怖くないの?」と訊くと、美月は一度だけ視線を時計へ戻し、自分の脈を確かめるように手首へ指を当てた。「怖いよ。でも、怖がったときにどう動くかまで読まれてるなら、取り乱した方が相手の予定どおりになる」 奈々香は何も言えず、自分の掌へ残った赤い文字を見た。 美月は一度深く息を吐き、車外へ出る前に自分の持ち物から確認すると言った。 犯人は奈々香の車とバッグへ罠を仕込み、本人が自然に選ぶ逃げ道を殺害手段へ変えていた。 ならば救急救命の知識を持つ美月に対しても、彼女が危機へ直面したとき最初に手を伸ばすものが狙われている可能性が高い。 美月が最初に床へ置いたのは医療バッグだった。 七刻女学校へ入る前から持ち歩き、透の死亡確認にも使ったものだ。 止血用品、包帯、消毒薬、体温計、簡易の検査器具、常備薬が細かく仕切られた内部へ収まっている。 美月自身が補充しているため、本来なら一本増
午前三時十三分まで、二時間を切っていた。 園村香苗を模したシリコン人形が置かれた軽自動車を警察へ引き渡すための連絡は、依然として電波妨害に阻まれている。 山道を徒歩で抜ければ通信圏まで戻れる可能性はあったが、奈々香の死亡予定時刻を告げた者が、その行動まで見越して罠を置いていない保証はない。 蓮司は車と倉庫で見つかった仕掛けを見回したあと、逃げるのではなく、相手が午前三時十三分に何を起こすつもりなのか先に探すと決めた。「予言じゃないなら、予定表だ」 悠斗が低く言った。 奈々香を一時十三分に殺すため、犯人はブレーキ配管を切り、倉庫へ落下装置を用意していた。 二つとも見破られたあと、予定時刻だけが三時十三分へ変更されたなら、新しい罠をすでに準備しているか、離れた場所から起動できる仕掛けへ切り替えた可能性が高い。 死亡予告を恐れるだけでは、犯人が用意した選択肢の中を動かされ続けることになる。 奈々香は蓮司の車の後部座席へ移された。 二台とも遠隔遮断器を外したため電源は復旧していたが、ブレーキへ細工された奈々香の車は動かせない。 蓮司の車も走らせず、橋と電話ボックス、山林のいずれからも距離を取り、周囲を四方向から確認できる路肩へ停めた。 美月が奈々香の隣に残り、窓とドアを内側から施錠し、何があっても一人で外へ出ないよう約束させた。「眠ったら駄目?」 奈々香は疲れ切った顔で訊いた。 二度も死亡時刻を告げられ、髪を根元から引き抜かれたうえ、橋の上で長時間緊張を続けている。 美月は無理に起き続ければ判断力が落ちるため、短時間眠ること自体は問題ないと答えた。 ただし自分が必ずそばにいて、呼吸と意識状態を確認し続けると伝える。 澪、朔、悠斗、蓮司の四人は、電話ボックス脇から山林へ伸びるケーブルを再び辿った。 小型無線中継器は倒木の裏へ防水ケースごと固定され、遠隔信号で公衆電話のベルや音声再生装置を動かせるようになっている。 先ほどは構造を確認するだけに留めていたが、今度は朔が書き込み防止用の機器を介し、ノートパソコンから保存領域の複製を始めた。 犯人へ接続を悟らせないため、通信機能そのものは切らず、記録だけを読み取る。「ログが残ってる」 朔の指が止まった。 端末には日時と送信先を示す記録が並び、今夜の着信だけでなく、数日前から試験信号
午前一時十四分へ変わる直前、欄干の外側から伸びた白い指が奈々香の髪へ触れた。 最初は濡れた枝が風に煽られたのだと、澪の目は理解を拒んだ。 だが指は五本あり、その先には掌があり、細い手首が暗い谷側へ続いていた。 橋の外には人間が立てる足場などない。 それでも女の手は奈々香の後頭部へ回り込み、長い髪を根元からまとめて掴んだ。「奈々香!」 澪は反射的に彼女の左腕を引いた。 ほとんど同時に奈々香の身体が欄干側へ強く引かれ、首が不自然に後ろへ反る。 奈々香は悲鳴を上げ、両手で自分の髪を押さえたが、見えない何かに身体ごと持っていかれるように靴底が路面を滑った。 朔が右腕を掴み、美月は奈々香の腰へ腕を回した。 悠斗と蓮司もすぐ駆け寄り、欄干から距離を取らせるよう全員で橋の中央へ引く。 澪の掌へ奈々香の爪が食い込み、朔の靴が濡れた路面で一度滑った。 髪を引く力は一瞬だけさらに強くなり、ぶちぶち、と嫌な音が奈々香の後頭部から聞こえた。 次の瞬間、力が消えた。 奈々香の身体は勢い余って橋の中央へ倒れ、澪も膝を路面へついた。 朔は奈々香を支えるより先に欄干へライトを向け、美月は倒れた彼女の頭を両腕で守る。 白い手はもうどこにもなかった。「動かないで。頭打った?」「髪……髪が……」 奈々香は泣きながら後頭部を押さえた。 美月はすぐ手袋をつけ、頭皮を照らして傷を確認する。 頭蓋部に打撲らしい腫れはないが、右後頭部だけ髪が不自然に薄くなり、赤くなった頭皮へ小さな出血点が幾つも並んでいた。 路面には髪が落ちていた。 十本や二十本ではない。 長い毛髪が数十本、束になって欄干近くへ散らばり、その多くに毛根がついている。 何かへ絡まった髪が自然に抜けたのではなく、強い力で根元から引き抜かれた痕跡だった。「誰かいた?」 悠斗が欄干から下を照らす。「いない」 蓮司も別角度から橋の側面を確認した。 コンクリート欄干の外側はほぼ垂直に落ち、下には十数メートル先の河原がある。 橋脚へ点検用の細い突起はあるものの、人間が片手でぶら下がりながら奈々香の髪を掴める位置ではない。 ロープを使えば可能性は残るが、欄干にも橋面にも固定具や擦れ跡は見当たらなかった。 朔はすぐに橋下へ続く斜面へライトを向けた。 先ほど透らしき人物が現れた河原にも人影はなく
〈死亡予定時刻、午前一時十三分〉という自分自身の声を聞いてから、奈々香はまともに呼吸ができなくなっていた。 美月が肩へ手を置いてゆっくり息を吐くよう促しても、彼女の視線はスマートフォンの時計へ吸いついたまま離れない。 午前零時三十二分。 残り四十一分という数字が一つ減っただけで、奈々香は喉を押さえ、橋を出ると言って車へ向かって歩き出した。「ここにいたら死ぬ。私、帰る」 悠斗が追いかけ、蓮司も橋を離れるなら六人一緒だと制した。 誰も奈々香を一人にするつもりはなく、死亡予告が犯人の誘導である可能性を考えれば、指定場所から逃げることさえ罠になり得る。 それでも奈々香は首を振り、今いる場所こそ殺されるために選ばれた場所だと言いながら、震える手で車のドアを開けた。 運転席へ座った奈々香がスタートボタンを押すと、セルモーターすら回らなかった。 警告灯だけが一度点き、すぐにメーター全体が暗くなる。 奈々香は「なんで」と呟きながら何度も始動を試したが、結果は同じだった。 朔がすぐに運転席から降ろし、車体へ触れる前に周囲を撮影する。 蓮司が自分の車でも始動を試したが、そちらも反応せず、二台ともほぼ同時に電気系統を失っていた。 悠斗がスマートフォンを取り出して警察へ連絡しようとすると、アンテナ表示は消え、圏外になっている。 美月、蓮司、澪の端末も同じで、数分前まで使えていた位置情報共有も切れていた。 山間部とはいえ、橋へ到着した時点では弱いながら通信できていたため、自然な電波状況の変化だけでは説明しにくかった。「妨害されてる」 朔は山林側へ隠されていた無線中継器とは別に、広い帯域へ雑音を流す小型の妨害装置がある可能性を指摘した。 車の始動不能まで同じ設備で起こせるとは限らないが、少なくとも外部との連絡を切り、六人を橋周辺へ留める意図は明確だった。 彼は自分の端末を操作しながら、通信が完全に失われた時刻と奈々香への死亡予告が流れた時刻を並べ、偶然にしては近すぎると呟いた。「じゃあ、さっきの電話は?」 奈々香が自分の端末を差し出した。「圏外になる前にかかってきたんでしょ。誰から?」 朔は着信履歴を開き、しばらく画面を見たあと眉を寄せた。 そこには白石奈々香からの着信が存在しなかった。 通話記録にも、不在着信にも、午前零時三十一分の発信は
午前零時十三分を過ぎても、河原に相馬透の姿が戻ることはなかった。 濡れた石の上には、彼が使っていた黒いヘッドフォンと、細長く伸びた磁気テープだけが残されている。 美月は手袋を二重にしてからヘッドフォンを拾い、朔が横で位置と状態を撮影した。 磁気テープには直接触れず、蓮司が長いピンセットで別の証拠袋へ収める。「これ、透のです」 美月はヘッドフォンの内側を懐中電灯で照らした。 左側のヘッドバンド裏に、浅い三本の傷が並んでいる。 高校時代、透が音響機材を机から落としたときについたもので、本人が気にせず使い続けていたため、美月も澪も何度か見たことがあった。 イヤーパッドの裂け目を白いテープで補修した跡まで一致しており、似た機種を用意しただけとは考えにくい。 澪は河原の暗がりを見た。 七刻女学校の放送室で透が倒れたあと、このヘッドフォンは彼の荷物と一緒にあったはずだった。 その遺体が消えた際に所持品まで持ち出されたのか、誰かが警察の封鎖前後に回収したのか、それともさらに別の経路で戻り橋へ運ばれたのか、判断できる材料はない。 確かなのは、死んだと確認した友人の私物が、今夜ここへ置かれていたことだけだった。「触った人間の痕跡が残ってるかもしれない。現場では最低限にする」 蓮司の言葉に、美月は頷いた。 だが朔はヘッドフォンを袋越しに見るうち、右側のハウジングだけわずかに厚みが違うことへ気づいた。 通常なら左右対称に近いはずの外装が、片側だけ一ミリほど浮いている。 落下で歪んだ可能性もあるが、螺子頭には一度開けたような細い傷があった。「中に何か入ってる」 悠斗が顔を寄せる。「ここで開けるのか?」「全部は開けない。外から確認できる範囲だけ」 朔は蓮司と警察へ連絡を入れ、現地保存を優先しながらも、現在進行中の危険につながる情報が隠されている可能性を説明した。 許可を得たうえで、車から精密工具を持ってきて右側の外装を慎重に外す。 内部の配線には大きな改造はなかったが、吸音材の裏へ、薄い黒色のメモリーカードがテープで固定されていた。「また記録媒体」 奈々香の声が小さくなる。 返し雛の内部から出てきた特殊規格のカードを思い出したのだろう。 朔は今回のものは一般的な小型規格で、八年前にも市販されていた形式だと説明した。 透は音響機器の